本間勇人 の Goodware Times

インターネットについて ドレイファスの考察をきっかけに

2011/08/17

カテゴリー: イノベーション


2001年に、ハイデガー研究家であり、AIや状況に埋め込まれた学習の理論を批判的に考察しているヒューバート・L・ドレイファスが、「インターネットについて」という小冊子を出版した。

☆私たちは、基本的に実際の空間の中に、身体を通して学んでいく。つまり、生きている。その空間は、無機質な空間ではなく、人類の知恵が埋め込まれ、人類の喜怒哀楽の感情が埋め込まれ、自然の生態系が埋め込まれている。社会と精神と自然の統合態なのである。

☆そのような状況に埋め込まれた背景文脈を、身体が5感で取り込みながら、思考が働き、感情が揺さぶられ、発想が生まれ、対話が生まれる。

☆その状況は、局地的である。一方でその局地を高次元化する視野の発信拠点でもある。また、自然や社会構築物の危険、物質的欲望の葛藤、人間関係の相克などのリスクも埋め込まれている。

☆これらの状況に埋め込まれた背景知識や文脈は、顕在化している知識や情報を確認し、整理し、論理的につなげる統語論(syntax)的な発想だけでは、読み解けない。あらゆる埋め込まれた背景文脈に迫る語用論(pragmatics)的な発想が必要なのである。

☆それゆえ、統語論的発想で組み立てられるAIはうまくいかないし、20世紀型教育ではうまくいかない。だからこそ、21世紀型教育の発想である状況に埋め込まれた学習が必要になる。

☆しかし、1989年以降のその学習の価値の転換が生まれた時は、IT革命前夜でもあった。ITの背景文脈は、インターネットであるが、そのネットに埋め込まれた知識は、統語論的発想でしか取り出すことができない。

☆状況に埋め込まれた背景文脈を身体全体を通して、語用論的に把捉することができない。すると、局地的に起きた事件の当事者意識をもてないし、痛みを感じることができない、無関心で繊細さのない表現が広がることになる。かといって、情報が爆発したネットの中で、世界の問題意識を感じ取ることもできない。局地も世界もギャップのないフラットな関係になり、そこにある権力の差や格差に気づかずに、素通りしてしまう。

☆したがって、現実という状況認識から遠くなり、それゆえ自分が状況の中でどのような使命をコミットメントすればよいのか、まったく無関心になってしまう。

☆以上のように、ドレイファスは、インターネットの爆発がもたらした、ものごとやできごと、人間関係の背景に対する無関心というニヒリズムの蔓延の危機に警鐘を鳴らしている。

☆しかし、身体を捨てなければ、インターネットの利用は、まったく逆の有用性があることも指摘する。

☆だから、ドレイファスは、インターネットそのものを批判しているのではなく、学習において身体を軽視する傾向が顕著に表れるがちなインターネットという素材を通して、ポストモダンの人間の在り方の脆弱性を強調して説明したかっただけなのである。

☆問題は、インターネットではなく、身体を排除して、つまり感情などを排除して、ものごとを理解し、構築していこうという偏向した価値観や意識、学習の危うさである。

☆この偏った考え方が、バーチャルという言葉の意味を、サイバースペースで表現されている仮想現実としてしまったのである。

☆しかし、バーチャルは、リアルの反対語ではない。現実態の反対語に過ぎないのである。リアルなスペースも、サイバースペースも、現実態である。その現実態をそれぞれどのように認識し、理解し、批判し、改善する設計図を組み立てたらよいのかを考えるフレームがバーチャルなのである。

☆89年以降、日常生活にリアル以外の現実態が現れたものだから、その違いを明確にすべく、対比したのだろうが、だからといって反対物と決め込むのは早計だった。むしろ同類項だったのである。

☆したがって、サイバースペースは、リアルスペースとともに、さらに現実態を豊かにし、その両スペースを含む状況という現実態に埋め込まれた多様な背景文脈や背景知識を読み解く脳内活動を含む身体の活動がバーチャルな学習過程なのである。想像力と違うのは、現実態をストレートに生み出す工程設計図であるということだ。想像力は、いまだ現実態にならない空想のものでもよいのである。

☆状況に埋め込まれた学習とは、このように身体全体で思考する過程を歩くことであり、その道筋をバーチャルと呼ぶのである。

☆かくして、リアルスペースに対する反対語ではなく、むしろサイバースペースとの統合を図るバーチャルな学習こそが、21世紀型発想なのである。

☆ある意味エバンゲリオンやマジンガーZのように、マシーンと人間の身体が一体となった状態が、サイバースペースとリアルスペースの両方に身体を埋めることなのである。

☆近代における科学と人間の対立・矛盾を止揚する段階にシフトする契機がバーチャルな学習なのである。

☆ところで、状況に身体全体を埋め込んで学習する最も大切な時期は、思春期である。というのはこの時期に大きな身体の変貌が起き、状況に自らを埋め込むトレーニングをする最初の時期だからである。

☆それなのに、この思春期の教育は、身体を排除した統語論的発想の教育環境しか設定されていない。身体的・語用論的発想の状況に埋め込まれた学習を設定なければ、局地の当事者の痛みを感じ、世界の問題を認識し、自分の使命をコミットメントする人材が育たない。

☆かくして、インターネット問題は、リアルスペースでの統語論的発想の教育の失敗の責任転嫁だったのである。このことに繊細に気づいた生徒は、学校で戦って傷つき、妥協するか、学校を改革するかしなければ、退却・撤退するのはやむを得ない。

☆公立に対する私立学校の存在、不登校、いじめ、フリースクール、通信制高校・・・などの問題は、ベクトルが違うが、問題性は同根だったのである。

☆そしてさらに問題は、このことを意識していない私立学校もあること。不登校やいじめを自分の責任だと思いこんでしまうこと、自らの使命を感じていない通信制高校やサポート校があることである。

☆この問題性から脱出するには、状況に埋め込まれた学習、つまり身体を多様で多次元の現実態に投げこむことである。この意味を踏まえた体験をすることを、哲学的にはプラグマティズムといい、社会学・言語学的には語用論というのである。

☆これらはアメリカ社会の思想的基盤の1つであるが、なるほど、それがゆえに、学校形態が様々設定されている。それはともかく、状況に埋め込まれた学習を設定した環境を探したり、作ったりすることが、21世紀型教育の使命であろう。

中高一貫校 「授業の質を、入学前に知る方法」 03

2011/08/15

カテゴリー: イノベーション


§3 学校説明会に顕れる授業の質

 

☆学校説明会に参加して、まず学校の教育内容を知ることは重要であるが、そのあとに幾つかのポイントを振り返ると、授業の質が映し出されているのに気づくだろう。(コンテンツとメソッドの両方の視点を活用するといってもよい。)

 

☆まずは入試問題の傾向を説明する教師の表現。出題分野と難易度を表現しているだけだと、ふだんの知のアプローチの仕方も、知識の整理を中心とする授業であると想像できる。どこまで考えさせたいとか、論理的思考だけではなく、創造的なところも試してみたいなどという表現をしている教師のふだんの授業は、探求をベースにしていると予想できるのである。

 

☆そして、入試問題を見てみると、前者の教師の仲間が作成した入試問題は、知識の確認、整理、比較を中心とする問題が多いということがわかるだろう。後者の教師の仲間が作成した入試問題は、仮説を立てる記述問題や気づいたことを書かせる記述問題、実験の条件を説明する問題など、論理的で批判的かつ創造的な思考を記述する問題を出題している場合が多いことに気づくだろう。

 

☆なるほど、入試問題は学校の顔である。

 

☆次に、説明会のトークの中で、教師が、参加した受験生や保護者に、問答を投げかけたり、動画でプレゼン(動画をただ流すだけではない)をしたり、パワーポイントで、東大などの入試問題を見せて、保護者といっしょに解きながら、基本は自分の学校の入試問題で出題する思考力問題と変わりがないことを解き明かし、保護者に勇気づけたりするコミュニケーション行為を行っている学校は、通常の授業でも同じような生徒と教師の対話のプロセスが流れていると推測できる。

 

☆また、学校説明会の流れ(シークエンス)が、創意工夫されている学校がある。教育の理念までは、保護者と受験生は同じ場所で説明を聴いているが、そのあとは、別の教室で生徒が体験授業やワークショップに参加できるようになっている説明会などはその典型である。

 

☆特にポイントなのは、体験授業やワークショップで、大学生や在校生がチューターとして参加しているかどうかである。一斉授業や講義形式というより、チーム学習や議論ができるように机や椅子がサークル形式で配置されているのもポイント。

 

☆このようなシークエンスの工夫が凝らされている学校の通常の授業は、状況に埋め込まれた学習や探求・議論・編集というシークエンスを構成する21世紀型の授業である場合が多い。

 

☆さて、最後にモチベーションであるが、これは保護者にしても、受験生にしても、最初不安だったものが、解消されて説明会を立ち去れる状況があれば、燃え上がるだろう。また、何度説明会に参加しても、その度に新しい発見があるという説明会だと、通常の授業でも同じように、毎回毎回発見があるわけだから、モチベーションは内燃する。納得そして発見は、押し付けられて生まれるのではなく、自らの思考作業の過程の中から生み出されるからである。

 

☆結局、良質の授業とは、アプローチにしても、シークエンスやプロセスにしても、モチベーションにしても、思考作業を共有できる知の空間を形成する工夫がされている授業であるということになる。それゆえ、良質授業において、生徒たちの姿は、目を輝かせ我を忘れ、知の世界の中に没頭するフロー状態になっているものである。つまり、授業で、実験室で、スポーツの試合で、視線の向こう側が焦げてしまうのではないかと錯覚するほど熱い視線を投げかけている表情の写真がパンフレット中で最も感動を生むのである。

中高一貫校 「授業の質を、入学前に知る方法」 02

2011/08/06

カテゴリー: イノベーション


§2 授業の質を視るポイント

 

☆入学前の学校説明会などで、授業の質そのものを視ることはできないが、授業の質を視るポイントを知ることで、その授業の質ポイントを説明会の幾つかの局面に照合することができる。

 

☆したがって、まずは授業の質ポイントを確認しよう。大きなカテゴリーとして3つのポイントがある。

 

① 知識への教員のアプローチ
② シークエンス(授業の物語的展開)とその中で教員と生徒が知識を取り扱うプロセス
③ 教師と生徒のモチベーション内燃ポイント

 

☆要するに「アプローチ視点」、「シークエンス&プロセス視点」、「モチベーション視点」ということ。この3つの視点(ASPMポイント)が、学校説明会のどんな場面に現れているのかを観察すれば、授業の質を形作ることができるし、想定できるが、もう少し説明しよう。

 

☆「アプローチ視点」では、さらにカテゴリーが二分化される。それは知識の記憶装置つまり知識データベース(KDB)を整理し、瞬時に引き出して問題と解答をマッチングさせるアプローチをするのか、KDB自体を自分で作ったり、新たな知識を見出し、新たなKDBを作っていく探求型(MIR)のアプローチをするのかに分けられる。

 

☆一般には暗記型と思考・表現型と言われるものであるが、実際にはその両者に記憶装置=知識DB(KDB)は必要であり、このような分け方は、わかりやすいが多くの誤解を生んできた。文科省まで基礎基本を知識の記憶で、その応用が思考や表現だという二分法に規定されているぐらいだ。知識の記憶の解明には実は高度な脳科学が必要であり、その知識DBを作るための基礎基本が、人間の歴史的経験的に思考と表現だと考えたほうが実情に合う。

 

☆本来知識DBは、思考と表現という基礎基本にもとづき、再構築されたり新たに構築されていくものである。それが、現状ではだれかが作った既存の知識DB群(たとえば、国語DB、社会DB、英語DB、数学DB・・・)を記憶することでいっぱいいっぱいになり、そのDBがどのように作られてきたのかという基礎基本は捨てられているのである。

 

☆「シークエンス&プロセス視点」は、授業は導入―展開―まとめという進行をするが、その各パーツでどのように生徒と教師がやりとりをするのかそのプロセスによって、思考や表現の知的活動は活発化し、知識DBの再構築とマッチングのスピードパフォーマンスも一挙にアップするのである。

 

☆導入といっても、目標説明型か、布石型か、伏線型か、モデル提示型か、その演出は様々。展開も弁証法型か、螺旋型か、難度積載型か、やはり演出は多様。まとめも、マイルストーン型か、見通し型か、布石型か、多種多様である。

 

☆「プロセス」は、教師と生徒のコミュニケーション行為である。知識を一方的に押し付ける抑圧型プロセスか、知識を双方向的に議論しながら、その背景や関連する知識を増やしていく論理的プロセスか、一見別々の知識DBどうしの関係づけに気づいたり、新たな知識DB構築の探求に踏み込む創造的プロセスか、いずれかである。論理的プロセス型のコミュニケーション行為をコーチングと呼ぶ場合もあるだろう。創造的プロセス型のコミュニケーション行為をファシリテーションと呼ぶ場合もあるだろう。

 

☆この「プロセス」こそ、学習だけではなく、アイデンティティや倫理などの価値観も生み出すチャンスであるが、それについてはいずれまた。

 

☆「モチベーション視点」は、教師の知識へのアプローチそのものにもあるし、シークエンスの流れにもあるし、プロセスにもある。それは生徒一人ひとりによって、違う。だから、よくモチベーションをアップするためには、インセンティブを明確に表現しろとか、叱らずに褒めろ、体験させよというような話になるが、それは生徒によって全く違うのである。

 

☆知識をマッチングさせることにモチベーションを感じる子もいるだろう。授業の展開のダイナミズムにモチベーションの燃え上がるのを感じる子もいるだろう。新たな探求プロセスにスリリングな気分を感じ、モチベーションをアップさせる子もいるだろう。そもそも全天候型のモチベーションアップ法は自己矛盾である。それは画一的方法論だからである。画一的なものこそモチベーションを喪失させるものはないということはわかっているはずだからである。

 

☆以上のように「授業の質の3つの視点(ASPM)」の概要を述べたが、このような成果は私立学校の先生方と授業の研究会を行って来たり、いくつかの私立学校と共に、授業やプログラムの質的リサーチをコラボしてきたりという過程を経てまとまったものである。

 

☆質的リサーチの方法論は、非常に深くいくつかの現代思想の見識も必要になるので、この場では説明できないが、偏差値や大学進学実績の量的リサーチだけでは教育や学校の評価をする指標としては偏りがあるという欠点を払拭できる重要な方法論であることは実感している。

 

☆さて、このASPMが、学校説明会のどのシーンに適用できるのか。次回はそこから始めよう。

中高一貫校 「授業の質を、入学前に知る方法」 01

2011/08/05

カテゴリー: イノベーション


§1 はじめに

 

☆中学受験生は夏期講習真っ只中、目の前のことで精いっぱいになる時期。9月以降は模擬試験の結果が一番に来るから、偏差値とそれに相関してしまう大学合格実績という量的指標で受験生も保護者も頭がいっぱいになる時期。それで、中高一貫校を選ぶとき、その2つの指標で選んでしまう。

 

 

 

☆しかし、これが入学後失敗だったということにつながるケースも少なくない。そしてそれがまた退学という結果になることもあるぐらいだ。それは、偏差値や大学進学実績という量的指標が、必ずしも中高一貫校の授業の質を反映しているわけではないからである。

 

☆なぜ授業の質なのか。それはちょっと考えれば了解できるだろう。学園生活の中で最も長い時間を暮らすのは、授業だからだ。この授業がおもしろければ、学園生活は楽しくなるだろうし、逆であれば、苦痛以外の何物でもない。

 

☆授業がつまらなくても部活があるじゃないかと言われるかもしれない。そうだろうか。もし部活を中心に選ぶのであれば、偏差値や大学進学実績は、第一の選択指標にはならないはずである。それはそうとして、かりに部活が盛んであれば、部活の質はよいと何によって判断するのだろう。授業の質が期待外れでも、部活の質はよいというのは、ますます見通しが甘いのである。

 

☆偏差値が高いと授業の質もよいから大学合格実績もよいという因果関係は成り立たないし、部活が盛んならば、部活の質がよいのかというとそれもまた成立しない。したがって、授業や部活の質を確かめる必要がある。しかし、それはどうやってできるのか。

 

☆学校説明会で、授業の質の良さをアピールする学校はない。結果から類推するのだが、そこに前述のような因果関係はないのだから、類推しようがない。部活も盛んで、大会での実績という結果をアピールする説明会は山ほどあるが、部活の質を説明するところはない。しかも、実績がある部活に関し、質がよいなどという類推を普通はしない。厳しいトレーニングもあり、厳しさのあまり暴力などもあるだろうなぁというイメージがわいてくるほうが普通である。

 

☆しかし、なぜ偏差値や大学進学実績がよければ、もしかしたら、部活同様、厳しいストレスで心が病んでしまったり、ルサンチマンのあまりいじめが発生しているかもしれないと推理しないのだろうか。学力に対する強迫観念をいったいだれが作ってしまったのだろう?それはともかく、このような偏った推理をせざるを得ない状態から抜け出すにはどうしたらよいのか。授業や部活の質を見破るしかないだろう。その方法について考えていきたい。今回は、まずなんといっても授業の質に絞ろう。部活のほうは、実は今年6月にスポーツ基本法が成立したので、その法律に照合すれば、スポーツ部活は判断することができるからである。文系の部活は、ほぼ授業の質と同様と考えれば、やはり授業の質の見破り方を主題にしたほうがよいだろう。

学校選択の3つのベクトル[01]

2010/10/18

カテゴリー: イノベーション


☆今日の日本がこのままでよいはずはない。もちろん、このままでは日本が危ないという意味は、国家財政が破たんするというようなソブリンリスクのことを言っているのではない。むしろ、逆である。あまりに欧米の経済の背景がよくなく、中国の経済発展と民主化への壁が、日本をまたも変えないといういう意味でリスクがあるのである。

 

☆ガラパゴス化とは、何ももの作り産業のことだけをいっているのではなく、日本人のものの見方そのもののメタファーでもある。このことは、世界の痛みに背を向ける、自分だけが生き残ればよいという利己的な生き方を日本人が選択するということを意味する。林成之先生によれば、利己的生き方やコツコツ言われたことだけやる生き方は、脳に悪い習慣

 

☆交流がなければ、しかも学ぶ寛容な姿勢がなければ、クリエイティブな知は豊かにならないし、異なる価値観を互いに共有できなくなる。それはやがて、日本にとって、日本人にとって、未来からやってきた子どもたちにとって、よいことであるまい。成熟国家日本の衰退、死滅を、経済的側面より先に、精神的文化的に招くからである。

 

☆仮に利己的であってもよいが、賢い利己主義でなければならない。先人の知恵に情けは人のためならずという諺があるではないか。他者のために生きることは利己的な生き方と表裏一体である。本物の利己主義は、本物の利他主義に通じる。

 

☆それはさておき、目先の利益にとらわれず、遠い先まで見通し、自分たちの子どもたちのために、世界と水平交流できるような人材を育成するのはどこかというと、実は大学という高等教育機関ではない。このような人材を育成する教養教育をリベラルアーツというが、この教育は中等教育段階で済ましておくことが肝要である。

 

☆高校段階で、すでに民主主義―プレ慣習化から民主主義―慣習化にシフトするだけではなく、民主主義―脱慣習化の段階まで進むコミュニケーション行為能力を養うリベラルアーツが必要である。この説明は、別の機会でしっかりしなければならないが、「民主主義―プレ慣習化」段階とは、まだまだ民主主義には程遠い意思決定がなされる国家のことをさし、そこで行われているコミュニケーション行為が、暴力という権力、経済という暴力、知識という権力に支配されている段階をいう。

 

☆「民主主義―慣習化」段階とは、民主主義が法治主義によって意思決定がなされる段階である。ここでは、この法が、リベラリズムによる正義という基準に準拠するのか、コミュニタリアニズムによる正義という基準に準拠するのか、コンサバティズムによる正義という基準に準拠するのか、リバタリアニズムによる正義という基準に準拠るのか、そういう価値相対主義のステージである。

 

☆「民主主義―脱慣習化」段階とは、民主主義がルール・オブ・ロー(法の支配)によって意思決定がなされる段階である。ここでは、法は、慣習化段階と違い、パースペクティブの違いによる神々の闘いを主張することをやめる。すべては現実世界における仮説的な基準に過ぎないことを了解し合い、普遍的なルールを議論によって合意形成していく段階である。

 

☆日本は中国のことを民主化発展途上と見ているが、それは暴力という権力がむき出しになっているからで、この権力を見えなくしている知識による暴力(官尊民卑や学尊民卑、学歴社会、死刑の存在はその典型)が蔓延している日本も実は、「民主主義―プレ慣習化」段階にいると考えた方がよい。

 

☆欧米先進諸国が、日本と似て非なるところは、彼らはすでに「民主主義―慣習化」段階で成熟している点である。成熟しているから、次のステージにシフトしようというのが欧米の現状である。だから核撲滅をジレンマがあるにもかかわらず、進めるのはそういうことなのだ。

 

☆国家単位では、そういう段階であるが、最終的な「民主主義―脱慣習化」段階に進むには、人材的には、すでにそこにシフトしている人材がいる必要がある。その教育をするのがリベラルアーツであり、中等教育でなされていなければならない。すでに欧米先進国の中等教育では一部行われてきている。それがイギリスのパブリックスクールであり、アメリカのプレップスクールである。それをなんとか公立の学校でというのがフランスやドイツ、フィンランド、北欧諸国の努力だろう。

 

☆本ブログで紹介しているAPUとAIUはそれを行っている数少ない大学であり、公立の中等教育が「民主主義―プレ慣習化」段階で、暴力を抑圧的に抑えている状況を大学で改善することができる大学なのである。すべての大学がこの両大学のようになることは不可能である。というのは、そもそもそういうリベラルアーツを行うトレーニングを受けている大学教授が少ないからである。

 

☆そうは言いながら、東大や早稲田、慶應、上智、ICUでなぜ「民主主義―脱慣習化」段階の人材がたくさん輩出されるのかというと、実は私立学校出身者が多いからである。60%以上は私立学校出身者であるはずだ。

 

☆この実態を社会学的にあるいは心理学的に検証しようなどという学者が教育学部にいないことがそもそも不思議である。ここで展開しているコミュニケーション行為段階論は、そもそもハーバーマス、ルーマンなどの社会学者の研究に影響を受けているし、ピアジェの発達心理学をベースに論を展開しているコールバーグやシーモア・パパートなどの影響を受けている。フロイトやヘーゲルをベースにしているエリクソンなどの影響も受けている。

 

☆先進諸国では、道徳の発達、認知構造の発達、役割取得の発達のトータルな段論を検証しているのに、日本では道徳の発達論に偏向した研究が教育社会学や教育心理学で進められているだけだ。それゆえ、暴力の精神的な抑圧的封じ込めという知識の暴力段階なのが日本の教育全般の現状である。

 

☆この段階では、不登校、いじめ、中退、ひきこもりなどが生まれてくるのはあまりにも当然なのである。この現象は社会構造の問題だと社会学者は指摘するが、それは間違いではないが、手続き論的システムの問題ではない。コミュニケーション行為が「民主主義―プレ慣習化」段階だから、どんなに欧米の社会システムをモデルにしても、素材が違うから似て非なる現象が生まれるのは当然なのである。合法的にナチが生まれた原因は、システムにももちろん欠陥があったわけだが、コミュニケーション行為論の段階がプレ慣習化段階だったということなのである。中国や日本の危うさは、まさにここにある。

 

☆だから、コミュニケーション行為段階を脱慣習化段階にシフトしなければならない必然性があるのである。≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫をたどっていくと、大きな差異は、ここにある。前者はプレ慣習化段階で覇権を握ろうと邁進したし、後者は「脱慣習化」段階にシフトする知の環境をリベラルアーツとして保守してきたのである。教養主義とリベラルアーツの違いと言ってもよいかもしれない。

 

☆さて、こういう意味で、リベラルアーツとして「脱慣習化」段階へシフトするコミュニケーション行為能力を育てる学校を選択しなければならないのである。では、それはいかにして可能か?

 

☆そのための学校選択の仮説を、3Tと3Rと3Xという3つのベクトルで考えていきたい。3TとはTalent・Technology・Toleranceであり、3RとはReading・wRiting・aRithmeticであり、3XとはeXplore・eXchange・eXpressである。

 

☆この3Tと3Rと3Xがすべてそろっている私立中高一貫校が、エクセレントスクールであり、さらにそれぞれのベクトルを伸ばしていく学校がイノベーティブスクールである。3Tと3Xが重視されているところはクオリティスクール、3Tと3Rが重視されているところは、エリートスクールという分類をしてみたい。下記の図は、本来3Dにしなければならないが、複雑になるので、便宜上2次元で描いた。3Tが3Rと3Xの合力ではないことはご了承いただきたい。

 

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