☆2001年に、ハイデガー研究家であり、AIや状況に埋め込まれた学習の理論を批判的に考察しているヒューバート・L・ドレイファスが、「インターネットについて」という小冊子を出版した。
☆私たちは、基本的に実際の空間の中に、身体を通して学んでいく。つまり、生きている。その空間は、無機質な空間ではなく、人類の知恵が埋め込まれ、人類の喜怒哀楽の感情が埋め込まれ、自然の生態系が埋め込まれている。社会と精神と自然の統合態なのである。
☆そのような状況に埋め込まれた背景文脈を、身体が5感で取り込みながら、思考が働き、感情が揺さぶられ、発想が生まれ、対話が生まれる。
☆その状況は、局地的である。一方でその局地を高次元化する視野の発信拠点でもある。また、自然や社会構築物の危険、物質的欲望の葛藤、人間関係の相克などのリスクも埋め込まれている。
☆これらの状況に埋め込まれた背景知識や文脈は、顕在化している知識や情報を確認し、整理し、論理的につなげる統語論(syntax)的な発想だけでは、読み解けない。あらゆる埋め込まれた背景文脈に迫る語用論(pragmatics)的な発想が必要なのである。
☆それゆえ、統語論的発想で組み立てられるAIはうまくいかないし、20世紀型教育ではうまくいかない。だからこそ、21世紀型教育の発想である状況に埋め込まれた学習が必要になる。
☆しかし、1989年以降のその学習の価値の転換が生まれた時は、IT革命前夜でもあった。ITの背景文脈は、インターネットであるが、そのネットに埋め込まれた知識は、統語論的発想でしか取り出すことができない。
☆状況に埋め込まれた背景文脈を身体全体を通して、語用論的に把捉することができない。すると、局地的に起きた事件の当事者意識をもてないし、痛みを感じることができない、無関心で繊細さのない表現が広がることになる。かといって、情報が爆発したネットの中で、世界の問題意識を感じ取ることもできない。局地も世界もギャップのないフラットな関係になり、そこにある権力の差や格差に気づかずに、素通りしてしまう。
☆したがって、現実という状況認識から遠くなり、それゆえ自分が状況の中でどのような使命をコミットメントすればよいのか、まったく無関心になってしまう。
☆以上のように、ドレイファスは、インターネットの爆発がもたらした、ものごとやできごと、人間関係の背景に対する無関心というニヒリズムの蔓延の危機に警鐘を鳴らしている。
☆しかし、身体を捨てなければ、インターネットの利用は、まったく逆の有用性があることも指摘する。
☆だから、ドレイファスは、インターネットそのものを批判しているのではなく、学習において身体を軽視する傾向が顕著に表れるがちなインターネットという素材を通して、ポストモダンの人間の在り方の脆弱性を強調して説明したかっただけなのである。
☆問題は、インターネットではなく、身体を排除して、つまり感情などを排除して、ものごとを理解し、構築していこうという偏向した価値観や意識、学習の危うさである。
☆この偏った考え方が、バーチャルという言葉の意味を、サイバースペースで表現されている仮想現実としてしまったのである。
☆しかし、バーチャルは、リアルの反対語ではない。現実態の反対語に過ぎないのである。リアルなスペースも、サイバースペースも、現実態である。その現実態をそれぞれどのように認識し、理解し、批判し、改善する設計図を組み立てたらよいのかを考えるフレームがバーチャルなのである。
☆89年以降、日常生活にリアル以外の現実態が現れたものだから、その違いを明確にすべく、対比したのだろうが、だからといって反対物と決め込むのは早計だった。むしろ同類項だったのである。
☆したがって、サイバースペースは、リアルスペースとともに、さらに現実態を豊かにし、その両スペースを含む状況という現実態に埋め込まれた多様な背景文脈や背景知識を読み解く脳内活動を含む身体の活動がバーチャルな学習過程なのである。想像力と違うのは、現実態をストレートに生み出す工程設計図であるということだ。想像力は、いまだ現実態にならない空想のものでもよいのである。
☆状況に埋め込まれた学習とは、このように身体全体で思考する過程を歩くことであり、その道筋をバーチャルと呼ぶのである。
☆かくして、リアルスペースに対する反対語ではなく、むしろサイバースペースとの統合を図るバーチャルな学習こそが、21世紀型発想なのである。
☆ある意味エバンゲリオンやマジンガーZのように、マシーンと人間の身体が一体となった状態が、サイバースペースとリアルスペースの両方に身体を埋めることなのである。
☆近代における科学と人間の対立・矛盾を止揚する段階にシフトする契機がバーチャルな学習なのである。
☆ところで、状況に身体全体を埋め込んで学習する最も大切な時期は、思春期である。というのはこの時期に大きな身体の変貌が起き、状況に自らを埋め込むトレーニングをする最初の時期だからである。
☆それなのに、この思春期の教育は、身体を排除した統語論的発想の教育環境しか設定されていない。身体的・語用論的発想の状況に埋め込まれた学習を設定なければ、局地の当事者の痛みを感じ、世界の問題を認識し、自分の使命をコミットメントする人材が育たない。
☆かくして、インターネット問題は、リアルスペースでの統語論的発想の教育の失敗の責任転嫁だったのである。このことに繊細に気づいた生徒は、学校で戦って傷つき、妥協するか、学校を改革するかしなければ、退却・撤退するのはやむを得ない。
☆公立に対する私立学校の存在、不登校、いじめ、フリースクール、通信制高校・・・などの問題は、ベクトルが違うが、問題性は同根だったのである。
☆そしてさらに問題は、このことを意識していない私立学校もあること。不登校やいじめを自分の責任だと思いこんでしまうこと、自らの使命を感じていない通信制高校やサポート校があることである。
☆この問題性から脱出するには、状況に埋め込まれた学習、つまり身体を多様で多次元の現実態に投げこむことである。この意味を踏まえた体験をすることを、哲学的にはプラグマティズムといい、社会学・言語学的には語用論というのである。
☆これらはアメリカ社会の思想的基盤の1つであるが、なるほど、それがゆえに、学校形態が様々設定されている。それはともかく、状況に埋め込まれた学習を設定した環境を探したり、作ったりすることが、21世紀型教育の使命であろう。



