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「現代の教育学」を私学的切り口で読む【09】 子ども

2009/08/27

カテゴリー: 未分類


◇≪「キーワード 現代の教育学」田中 智志・今井康雄 編(東京大学出版会 2009年)≫の第9章は、「子ども―システムを侵犯する外部としての子ども」。執筆担当は矢野智司教授。

 

◇子どもは近代になって発見された。それまでは子どもと大人の今のような区別はなかったと。その近代になって発見された子どもという在り方は、

 

私たち大人のように手段―目的関係の有用性に支配された世界にではなく、純粋な関心のうちに生きている。つまりは子どもとはこのシステムの外部を生きることのできる存在である。

 

◇そして近代教育の課題は、大人の手段―目的関係の有用性の世界に定着させることなのだと。しかしながら、この手段―目的関係という有用性社会は、合理的な経済社会で、必ずしも人間的な愛情の関係性に充ちているわけでもない。現実と夢の境目のない溶解体験の子どもの世界に、幻想だけではなく愛情の関係性もある。

 

◇ここには本来的な人間関係の萌芽もあるかもしれないと。ホイジンガーの「遊び」という文化の概念に近いものがあると。ただこの世界の溶解体験や遊びは善悪の彼岸であるケースも多く、常に危険性が潜んでいるとも。

 

◇合理的経済社会も人間喪失、存在の故郷喪失の危険性に充ちているのだから、子どもの世界だけをアウトロー視するのはかたよりがあるだろう。しかし、この子どもの世界とフロイトの無意識を重ね、超自我によって抑圧する道徳的動きが公立にはあるようだ。

 

◇私立学校もここのリスクマネジメントはかなり慎重だが、リベラルアーツをベースにする以上、ホイジンガーの「遊び」的な領域や芸術・創造の領域を抑圧することはない。子どもの領域のマネジメントこそ大切な教育なのだと思う。

 

◇大人の世界に定着させることを「社会化」と呼ぶのだろう。そしてそういう社会のことを学校化社会というのではないか。子どもの領域をもマネジメントすることを批判的・創造的学び、つまりリベラルアーツによって育つサイード的な意味での「知識人化」なのだろう。どちらが重要か。それは創造的資本主義やクオリティ資本主義へのシフトが回答を用意していると思う。

学習アドバイザーのコミュニケーション【03】

2009/08/18

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◇大人の世界(現実態)―子どもの世界(可能態)の近接領域であるOriginal Angle between Potentiality and Actuality(OAPA)を無意識の世界と置き換えることもできる。しかし、この場合、多くの場合は抑圧の対象となる。子どもの世界は大人の世界に回収されなければならない。そういう意味での社会化が教育とされてきた。

 

◇現在、基督教独立学園の校長である安積力也先生は、恵泉女学園の校長だったとき、ある教育心理学のセミナーで、講演者の学者先生と無意識の捉え方について議論を交わしていたのを覚えている。講演者は、無意識の世界が現実に広がっているので、様々な教育問題を子どもたちは生んでいる。だから抑圧しなければならない。超自我の育成とはそういうことだと提唱したことに対し、安積先生は、ユングの立場に立ち、無意識の創造性をも抑圧しかねないのではないか、そこをどう思うかと問うたところ、学者は、ユングはフロイトの弟子だから基本的には同じだと思うというわけのわからない答弁をしていた。しばらく安積先生は議論を続けていたが、詳細は覚えていない。

 

◇しかし、安積先生の問いかけは、OAPAという存在の故郷を奪ってはならないのではないかというものではなかったか。抑圧は存在の故郷を奪い、社会実現と自己実現の欲求をすり替えてしまうシステムを強化するのではないかと。

 

◇かつて恵泉の学校説明会で、安積先生が話をしたとき、多くの保護者の眼から涙がこぼれたというエピソードは有名だ。受験という生徒募集のシステムの中で、ともすれば偏差値や大学進学実績という存在の故郷を埋め尽くし、社会の中で勝ち組になるにはどうすべきかという話が主流になるシーンで、おそらく安積先生はOAPAという、子どもたち、いや大人にとっても、創造の泉である存在の故郷の話をしたに違いない。

 

◇しかし、東京という受験市場で、OAPAを守ることは孤軍奮闘だったのかもしれない。OAPAの領域の拡大はあきらめ、その領域の保護をしなければと覚悟をきめたのかもしれない。もちろん勝手な憶測にすぎないからわからない。たいへん惜しい気もするが、その精神と同質のものを持っているのが鴎友学園女子の清水校長だ。私学人の精神のルーツあるいは≪私学の系譜≫の故郷であるOAPAを東京の私立学校、および全国の私立学校とともに保守し、再構築していこうと、この夏各地で講演などで奔走している。

 

◇私学人(たんに私立学校の経営者や教師ということではない)こそ、OAPAという存在の故郷を守り続けるLAなのである。このレベルのLAを育成する研修はいかにして可能なのか。この金融危機で大きく拓いたOAPAを見える化するには、最重要の課題なのである。

学習アドバイザーの重要な意義とアンビバレンツ

2009/08/15

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◇89年のベルリンの壁が崩壊して20年。この間に学習観は大きく変わった。教師という専門家以外に、子どもたちの学びのサポートにかかわるロールが生まれてきたというのもその1つだ。塾の講師というのは、教師の代替あるいは補完であり、新しいロールとは言えない。

 

◇教師は、学習指導要領や学術的な知識の体系の枠内で、問題解決のスキルを育んでいくが、新しいサポーター―これを学習アドバイザー(LA:Learning Advisor)と呼ぶことにするが―は、その枠内に入れない子どもや枠内の中で進めないでいる子どもや枠内をはみ出ている子どもたちの学びをサポートするのである。

 

◇知識の体系は1つのストーリーだし、因果関係の連鎖である。これを丸ごと記憶すれば、近代社会でサバイバルできるように構築されてきた。だから教師はこの知識の体系を伝え、記憶する環境をつくるのである。

 

◇専門家と子ども=未来の市民の関係は、縦の関係だった。ところが、裁判員裁判、政権交代選挙、マニフェストの市民による批判、科学コミュニケーションのフラット化など、専門家でない市民が自ら選択や評価の判断を下さなければならない時代が訪れている。

 

◇知識の体系も時代のイノベーションや科学技術の進化、脱技能の促進によって、拡大し、学習指導要領に基づく体系では、不足し始めている。基礎基本の概念も変わりつつある。

 

◇あらゆる領域が異領域どうしのコラボレーションが必要となっている。教師だけが異領域どうしのコラボレーションがないという学びの環境を維持し続けるとなると、これはもしかしたら時代錯誤になりかねない。

 

◇そこで、教師と異領域を結ぶロールプレイヤーとして、LAが必要となる。結ぶロールプレイとは≪媒介=メディア≫になるということなのだ。

 

◇教科という知識と教科を超える知識を結び付けるのは、子ども自身であるが、子ども自身はまだ自らが媒介者として成長していない場合が多い。とくに従来の教育では、子どもは自らの白紙の脳みそに知識を刻印されてきたのだから、自らそれをどのように刻印すればよいのかはわからないままできている。もちろん、中には優れた子どもがいて、その方法に気づいてしまっている場合がある。

 

◇そのような子どもは早熟で、同世代の知的レベルにおいて圧倒する賢さを示す。しかし、多くの子どもはそこまではいかない。そこで、媒介のロールをするLAの存在は、多くの子どもに知識の刻印の仕方を気付かせることになる。

 

◇これは1つの大きな飛躍である。近代社会は、多くの知識を平等に刻印されるチャンスをつくり、その刻印された知識を活用して生きていけるように組織されている。多くの知識が刻印され、それを効率よく加速度的に活用できる人材が勝ち組になってきた。この勝ち組になる過程を成長と呼んできたわけであるが、すべての子どもが知識の刻印の秘密を暴けるようになるというのは、成長の次元を超えるという意味での飛躍である。

 

◇ともあれ、今までは、一握りの人間はその勝ち組の人材をマネジメントできる立場に立つことができた。彼らは刻印する方法を、つまり知識の刻印の操作を知っている専門家だ。勝ち組負け組という競争市場をつくり、そこから税金を回収する管理者である。

 

◇ところが、どうもその市場の広がりがおもわしくない。勝ち組負け組のない本来的な市場を創ろうじゃないかという動きが生まれてきている。もちろんこの実験は、遠くギリシャの都市国家づくりから議論され、実験されてきた。しかし、そのたびにうまくいかなかった。

 

◇それは一部の人間の利益に結びついてしまったからだ。21世紀は、ここを突破しようとしている。そうすると今までのメリトクラシーの組織は揺らぎ始める。LAの存在は、その揺らぎを抑えるためにはじめ存在するが、その揺らぎを促進する存在にシフトする可能性がある。

 

◇だから、教師とLAのコラボがうまくいかないときがあるのである。揺らぎを抑えるロールは実は難しいのだ。というのは、LAは多くの場合大学生やそれに準じる若者である。彼らは、すでに揺らぎを生む世代なのであり、その自覚を持って、使い分けができない。

 

◇しかも揺らぎを起こすスキルやノウハウを積んでいるわけでもない。時代の雰囲気に包まれている場合が多い。だからLAは研修を充分に受け、覚醒しなければならないのだ。なぜなら、揺らぎは、中途半端な場合、負のベクトルを生むからである。負のベクトルを生むくらいなら、揺らがない方がましなのである。

10歳の壁を超えるプログラム=CIプログラム[01]

2009/07/19

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◇以前本ブログで「10歳の壁を超えるミニプログラム」についてご紹介しました。「10歳の壁」は、学校化社会の蔓延が徐々に摘み取る才能の偏向化と私はとらえています。子どもが自然に成長して、自らの才能を捨てていくというのは、ちょっと考えると無理がありますね。

 

◇学校化社会が鋳型をはめていくと考えるのが自然でしょう。それが「10歳の壁」になるんですね。では、のびのび自由にさせればそれでよいのかというと、それはそれで困ります。全部が全部この「のびのび発想型」が原因ではないですが、フリーターやニートの問題や退学の問題は、「きっちり勤勉型」の学校化社会から回避して「のびのび発想型」の環境にシフトすることにも関係があります。偏るというのはいろいろな問題を生み出してしまうというのは世の常です。

 

◇ですから、偏らないためには、要は、社会と自分の葛藤を乗り越える強い才能を見出し、発展させられるかだと思います。学校化社会は「きっちり勤勉型」の学びの環境になりがちです。それに対し反学校化社会は「のびのび発想型」の学びの環境をつくりがちです。この両方を統合することによって、他者と連携もでき、自分の個性を見失わずに、共に生き抜いていける・・・。

 

◇たとえば、公立学校ではこどもの成長モデルをフロイドの心的構造を当てはめることが多いので、無意識を抑圧する超自我を作り上げる道徳を組み立てます。これに対し、ユング派に依拠するある私立学校の校長は、無意識にこそ芸術的才能が宿るからと反公立学校化社会を作っています。

 

◇ここで大事な点は、ユング派もフロイト派から出てきていますから、偏ったな反「きっちり勤勉型」=「のびのび発想型」ではなく、むしろ両方を統合しようというベクトルだということです。だから、そこの学校から社会に出た卒業生は、社会に貢献する活躍を果たしています。

 

◇しかし、そんな私立中高一貫校は、日本全体で7%ほどの子どもたちしか収容できないのですね。そうなると多くの子どもたちは「きっちり勤勉型」の学びの環境に進まざるをえないのです。

 

◇ですから、10歳以上学校社会化がますます強化される段階に進んでも、「きっちり勤勉型」と「のびのび発想型」の両方を自ら統合でき、自分の才能を捨てないように準備しておくプログラムが必要になるなと思っています。私立中高一貫校に進めば、そういうプログラムが用意されているところが多いので、問題はないのでしょうが、先ほども述べたように、7%の子どもにしかチャンスがないのです。

 

◇さて、そういう両方を統合して活躍している人たちはクリエイティブ・クラスと呼ばれていますが、そういう意味では、この「10歳の壁を超えるプログラム」は、「クリエイティブ・インテリジェンス・ベース・プログラム(CIプログラム)」と言えるでしょう。私立中高一貫校に進まなくても、3年生までにCIプログラムのような環境を子どもに用意しておけば、未来から来る不安に対処できるかもしれません。

10歳の壁を超えるミニプログラム

2009/06/24

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6月18日、NHKクローズアップ現代で取り上げた10歳の壁について書いた記事に、今もアクセスが続いています。せっかくだから、批判しているだけではなく、誰でも使える10歳の壁を超えるミニプログラムをご紹介しましょう。

 

◇年に何回か、地域の小学生低学年の生徒10人くらいと、本を読んで絵を描くプログラムをやっています。ただ本を読むだけではなく、本を読んでイメージできる状態をととのえるために、はじめにミニプログラムを入れます。

 

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◇ドラえもんのチョロQを子供たちに渡します。すぐにチョロQを後ろに引っ張って、手をはなして走らせます。もっともドラえもんのは、ドラえもんを乗せないと走りませんが。

 

◇そんなことをやっているうちに、問いかけます。どうして動いたの?すると、「ドラえもん乗せたから」とか「ひっぱったから」とかすぐに返ってきます。ドラえもん乗せたらどうして?「磁石かな」「ほら友達のドラえもんとくっつくから、そうだね」とか。ここで構造上の問題にあまりこだわらず、なにせ10分のミニプログラムですから、ひっぱるとなぜ?と。「ゴム」「ばね」などなど。ゼンマイであることにそこはこだわず、なるほどと。さてなぜひっぱれるのと。「力があるからだよ」と。ではなんで力があるの?「人間だから、当たり前じゃん。」いいところに気づいたね。なんで人間だと当たり前なの?

 

◇「生きてるからでしょ」生きてるかあ、そうだよなぁ。なんで生きてるの?「食べるからに決まってるじゃん。」何を食べるの?「鶏肉」「豚肉」「牛肉」・・・。鳥とか豚とか牛は何を食べてるの?「草」。草は何食べてるの?「食べてはいないけど」

 

◇「でも水吸っているし」「土から栄養も」・・・。そこで小学校3年生が「光合成ってこと」。小学1年生は???。3年生がいっしょけんめい説明し始める。「葉っぱから二酸化炭素すって、茎が水を吸い上げて、それで太陽の光がそろうと、栄養ができる」と。

 

◇小学校1年生や2年生は、よくわからないけれど、「太陽!!」ということになる。ドラえもんのチョロQが走るのに、窓越しに輝いている太陽がかかわっているというのはインパクトがある。この時代の子どもたちは本当にピュア。一対一では、こういう対話は続かないけれど、5,6人そろえばなんとかなるのです。地域の子どもたちといっても、絵を描くことが好きだったり、本を読むのが好きだったりする子どもたちばかりということもあるのかもしれませんが。

 

◇このチョロQと太陽の話は、実はノーベル物理学賞を受賞したファインマンが子供のころ父親と話したときのもの(「聞かせてよ、ファインマンさん」岩波で紹介されている)。低学年のころにあらゆるものの背景の関係や循環を話し合える関係を創ること。それが10歳の壁を超えるミニプログラムです。

 

◇なぜそれが10歳の壁を超えるプログラムとして有効なのか?ファインマンという権威が保証するというのかという批判を関係者からよく浴びます。どうしてそういう哀しい疑問しか思い浮かばないのだろうと悲しくなります。実際に目の前にいる子どもたちが目を輝かせて楽しんで対話している瞬間にすでに効果は表れているのではないでしょうか。

 

◇私立中学を受験する生徒と授業をしたときも、毎回導入部は同じようなミニプログラムをやりました。はじめのころは、時間の無駄だと、同僚や親からクレームもありましたが、それは本当にはじめだけでしたね。麻布や武蔵、桜蔭の入試問題の本質と通じるということを生徒自身がすぐに気付くからです。中学受験勉強が実は科学の目を育てることになるわけです。

 

◇チョロQというマテリアルの背景にあるコトは、科学的に解明しようとするとどえらいおもしろさがあるのです。すべてのマテリアルには背景があります。それが中学入試の問題というマテリアルでも同じです。

 

◇茶碗の湯を見て、地球規模の自然現象をそこに見通せるということがミニプログラムの真骨頂です。このことをエッセイに書いたのはあの寺田寅彦先生でしたね。