本間勇人 の Goodware Times

‘イノベーション’ カテゴリーのアーカイブ

人口オーナスを乗り越えるAPUとAIU

2010/09/01

カテゴリー: イノベーション


☆「人口負荷社会」(小峰隆夫著 日本経済新聞出版社2010年6月)を読むと、なぜ経産省が≪日本のアジア拠点化総合戦略~「企業が国を選ぶ時代」の立地競争力強化~平成22年4月23日≫で、グローバル時代が求める先進的大学として立命館アジア太平洋大(APU)と国際教養大学(AIU)を挙げているかがわかる。

 

☆同書におけるキー概念は、「人口オーナス(onus)」。勤労世代が、まだ働き手でない年少世代と定年を迎えている老年世代をどれだけ支えていくかということを考察する概念。年少世代の人口と老年世代の人口を合わせて、勤労世代人口に対して従属人口という。この従属人口の勤労世代に対する割合を「従属人口指数」と著者は呼んでいる。

 

☆割合が高ければ高いほど、勤労世代の負荷がかかるわけだが、少子高齢化社会とは、人口オーナス度の高い人口負荷社会だと考えるわけである。

 

☆そういう見方をすることによって、重大な問題が見えてくる。少子高齢化社会がGDPの成長率を鈍化させるという経済現象の側面だけをみて、その量的成長率を上げることが、少子高齢化社会政策になると考えられているが、すでに中国に抜かれてしまっているように、日本の人口の13倍以上の中国に抜かれるのは当然であり、やがては10倍以上の人口を有しているインドにも抜かれるのも時間の問題である。ルクセンブルクや北欧諸国をみればわかるように、大事なことはGDPという量の指標ではなく、生活の質の指標である。

 

☆したがって、人口オーナスという指標で見えてくることは、従来型の労働観・仕事観のままだと、その生活の質がどんどん劣化していくということにある。人口オーナス度が高ければ、当然労働条件は過酷になるし、個人貯蓄も減る一方であり、選挙を通じて行う民主的政治も世代間の偏りが生じる。

 

☆リーマンショックは、こうした人口オーナスに対応する技術の失敗の1つだという見方もできる。日本はこの人口オーナス度が急激に上昇しているという。それは自殺率が高いはずだ。死んでも年金を獲得せざるを得ないモラルハザードが起こるはずだ。傷害事件や殺人事件も増えるはずだ。幼児虐待も増えるはずだ。もちろん、人口オーナスとこのような事件の因果関係は論証が必要であり、簡単には言えない。

 

☆しかし、オーナスと言う抑圧が、経験を積み成熟した世代になる前にかかるわけだから、それがどこで爆発するかはある程度想像はできよう。このようなモラルの低下、収入の減少は、潜在的な人的資源や機会費用の損失を生み出す。

 

☆それゆえ、経産省や文科省はグローバル人材を育成して、人口オーナスに備えようというわけである。しかし、GDPという量の競争原理による経済政策では、うまくいかないのも容易に予見できる、従来型の天然資源に頼る産業をアジアの地に求めてもうまくいかないだろうし、それと引き換えに援助をするというのも財源の問題上うまくいかなくなるのも火をみるより明らかである。

 

☆そこで、天然資源から人的資源へ、援助から自立へと、経済の量的指標から質的指標へパラダイムチェンジを果たさねばならない。そのような潜在力を発掘する力は政府や官僚は持っていないから、大学に依頼しようというのだろう。そこで登場してきたのがAPUとAIUなのだ。

 

☆それにしてもなぜ大分や秋田にそのような先進的大学が設置されたのだろう。小峰氏の作成したデータによると、2030年に人口オーナス度が最も高くなるのは秋田なのである。しかも、すでにその道を歩んでいるから、そこをなんとか教育で補おうとして、全国学力テストで優秀な成績を収める一方で、自殺率も高いのである。AIUの使命は、日本の国の将来の前に秋田県の将来を救わねばならないのである。

 

☆大分も2030年になると人口オーナス度の高い県になる。私大ではあるが、開設するには、自治体との協力が必要であり、当然人口オーナス度を抑える使命は、当初から持っている。

 

☆さて、この人口オーナス度を抑えるためには、産業や経済のパラダイム・チェンジが必要なのだが、それはいかにして可能なのか。これが21世紀型スキル教育なのである。インテル、マイクロソフト、シスコとOECD/PISAの研究グループとのコラボレーションがすでに動いている。その21世紀型スキル教育とは、インテルのペイジ・ジョンソン氏によると、次の通り。

 

①批判的思考力(批評精神を持って考える力)と問題解決能力
②コミュニケーションとコラボレーションの能力
③自立的に学習する力
④ICT(情報通信テクノロジー)を確実に扱うことのできる能力・スキル
⑤グローバルな認識と社会市民としての意識
⑥金融・経済に対する教養
⑦数学、科学、工学、言語や芸術といった分野への理解を深めること
⑧創造性

 

☆このスキルは、グローバル社会が前提だから、英語が活用できるのは当然。

 

☆さて、こうして8つの項目を眺めると、APUとAIUはすでにこのようなベクトル上にある。筆者が本ブログで、APUとAIUについて話題にし続けているのは、経産省とは異なる質的指標という観点から把握しておきたいというアイデアからであるが、両大学が新たな時代を切り拓く大学の求められるプロットタイプであることは、根拠づけは異なっているが、国の考えと一致しているということだろう。それは、時代が求めていることであるから当然のことなのも知れない。

APUとAIUとユヌス氏とユニクロ

2010/07/14

カテゴリー: イノベーション


☆昨日(7月13日)、東大の福武ホールで、株式会社ベネッセコーポレーション主催の「ムハマド・ユヌス氏と中学生の対話」の企画が行われたが、その中で、ユヌス氏はユニクロとの提携による「ソーシャル・ビジネス」の話をしていた。

 

☆同日の産経新聞でも、「グラミン・ユニクロ」のことはリリースされていた。

 

カジュアル衣料品店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは13日、グラミン銀行と提携し、バングラデシュで10月に現地向け衣料品を企画・生産・販売するための会社を合弁で設立すると発表した。・・・・・衣料の普及や雇用創出で、貧困からの自立を促す。・・・・・・バングラデシュの国民1人当たりの国内総生産はおよそ574ドル。貧困ラインといわれる1日1・25ドル以下で生活する人の割合が36・3%に達している。ファーストリテイリングは、現地で1ドル程度で販売できる衣料品の提供を検討している。

 

 

☆大事なことは、小さな利益を大きな世界の問題解決につなげるイマジネーションだと福武ホールでユヌス氏は中学生に語っていたが、このような「ソーシャル・ビジネス」のコンセプトをすでに生み出し、社会に人材を輩出している大学が、APU(立命館アジア太平洋大学)とAIU(国際教養大学)。APUは大分に、AIUは秋田にある。まさに中心ではなく周縁から起きていて、新たな文化創造の予兆があるわけだ。

 

☆ユヌス氏と中学生の対話のイベント終了後、ベネッセの代表取締役社長福島保さんも、「グラミン・ユニクロ」の話題に触れた。ベネッセ自身は今後同じような動きをするかまだわからないと慎重だったが、これは同社の問題ではなく、日本の教育と企業の大きな差であることを象徴している。

 

☆ユニクロの場合、バングラディシュで1ドルの商品を開発できる。これで十分に現地で利益を上げることができるのだが、もしその商品をイギリスや日本で5倍で販売したとしても、高いと感じることはない。ワンコイン商品として、日本では拡販できるだろう。すると大きな利益を蓄積できる。それをまた「ソーシャルビジネス」に展開していく回路をつくれば、ユニクロは世界の人々の痛みを解決しながら、利益を得ることができるのである。

 

☆しかし、日本に拠点をもっている多くの教育産業は、このビジネスモデルを適応しにくい。なぜなら、日本の商品をバングラディシュに持ち込んでも、とてつもなく高価で誰も買わない。しかも英語ベースにするには、さらに開発費がかかり、採算などまったく合わないのである。

 

☆さてさてどうしたらよいのか?今週15日、ユヌス氏は、APUでも講演する。APUにもヒントがあるということだろう。最近のテレビ番組では、APUよりAIUを話題にする傾向にある。やはり公立大学だからか・・・。あるいは、中島学長が、あの鈴木メソッドに関係があり、小澤征爾氏とも関係するからか・・・。

 

☆それはともかく、AIUは学生全員を海外に1年間留学させられるシステムを持っているし、なぜかその費用負担が安い(ということは助成金か何かがでている???それともこれこそソーシアルビジネスの仕掛けがあるのか???)というのがウケている。

 

☆しかし、APUは在学生の50%前後がアジアを中心とする世界中からの留学生だ。この環境はそう簡単にお金で解決できるような問題ではない。破格の文化資本である。このリソースを「ソーシアル・ビジネス」の一環として、どのように教育というビジネスに結実させられるのか、そのヒントがそこにはあるのだ。APUの学生とユヌス氏が対話をしたら、イマジネーションがわくだろう。

 

☆もう一つのヒントは、ユニクロ、楽天、Hyundai。2012年ぐらいまでに、社内公用語の英語化の流れが闊達になるだろう。そして他社も右へ倣い・・・。

 

☆そこで「グラミン銀行」の出番ではないか。APUと提携して「ソーシアル・ビジネス」を教育に持ち込むことができる!のである。

東大を超える可能性大APU

2010/06/03

カテゴリー: イノベーション


☆APUの驚くべき世界標準の高さについて書いていることもあって、私立中高一貫校の先生方とお会いすると、APUの話題で盛り上がる機会が増えてきた。

 

☆実際、日経新聞や朝日新聞、AERAなどジャーナリズムも注目していて、たびたび記事を目にするチャンスも増えた。APUに期待がかかっている証しだろう。

 

☆では、その期待とは何か?それは、東大を超える可能性が大ということだろう。実際に2006年に卒業し、日本赤十字社に勤務していた湯井雅志さんは、災害や紛争後の支援に従事しながら、政策立案や制度設計という枠組みの最適化こそが重要だと気づいた。そしてその仕事につくために、シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院に進学し直した。

 

☆シンガポールの国立大学のランキングはイギリスのThe Times Higher Education Supplement(THES)によると、東大と変わらない。しかし、その質は、シンガポール国立大学は、イギリス世界戦略のビジョンに結び付いており、ガラパゴス日本の政策を支える研究をする東大とは、まったく違う。

 

☆イギリスの世界戦略とは、欧米のデモクラシーの浸透戦略である。つまり、言論の自由と人権と人類愛というリーガルマインドをベースにした市場経済の制度設計である。あるいは適正手続きのシステムである。このデモクラシーの世界標準のものさしに照合すると東大が保守しようという日本のデモクラシーは発展途上的である。

 

☆世界で通じるかどうかは、実は英語ができるかどうかではない。もちろんできなければならないが、それはコミュニケーションをとりながらできるようになるものだ。問題はそのコミュニケーションができるかどうかだが、その肝は、制度あるいは法の支配のルールの共通コードを相互に理解できるか、その正当性や信頼性について議論できるかどうかなのだ。

 

☆おそらくなぜ公共政策を研究したいのかと聞くと、日本では公共政策をやって官僚になるためですというような回答がすぐに返ってくるだろう。本当の回答は、世界にデモクラシーを広め、最適化するシステム構築のためですとこたえなければならないのではないだろうか。

 

☆なぜデモクラシーなのか?それはニューヨークの国連にいけばわかる。ノーマン・ロックウェルのモザイク画を見よ。多民族の調和が描かれている。その調和は、民族も宗教も超えたゴールデンルールを大事にすることから生まれると刻まれている。

 

☆このゴールデンルールについて、もし知らないならば、英語ができても世界では通じない。おそらく東大では、このゴールデンルールについては学ばないであろう。ここに東大の限界がある。APUは、そのゴールデンルールを学内ですでに実践している。そうでなければ、50%が留学生であるというようなことは成就しない。

 

☆偏差値。これはある一定の条件のもとでしか計算できない。知識重視の受験勉強という条件のもとでのみ。こんな受験制度設計が、もはや役に立たないことは多くの人が知っているのではないか。ともあれ、世界標準の制度の条件のもとでは、学生の才能の評価はガラリと変わる。だいたい、世界の大学に偏差値という評価はない。

 

☆東大をめざすことに何の文句もないが、それは内向き日本を強化するだけだ。APUで「世界人」になることを目指すモチベーションの高い学生は、ガラパゴス日本の中でも、0.3%はいるだろう。そんなモチベーションのある生徒は、APUをリサーチしてみてはどうだろうか。

Good Schoolはいかにして可能か?③

2010/06/01

カテゴリー: イノベーション


§3 世界標準のビジョンとバージョン

 

世界標準のものさしは、近代の矛盾を乗り越える思考の基準であり、選択の基準であるが、近代の矛盾とは何か?それは、問題自体は近代特有ではない。むしろ人間存在本来が持つ矛盾を解こうとして存在を喪失していく矛盾過程が近代の矛盾の特有なところだ。

 

人間存在本来が持つ矛盾は、欧米的な視界からすれば、古代ギリシア時代からヨーロッパが持つ矛盾であり、その矛盾が近代に入って、大航海、ルネサンス、宗教革命、産業革命を通して、世界中に広まった。グローバリゼーションはどうしても近代ヨーロッパ資本主義から由来するから、今のところはこのように欧米に限定してとらえておくが、ともあれ、その人間存在本来が持つ矛盾とは何か?

 

それは、常に人間は何らかの壁をつくるということである。その壁が意識下に見えなくなると矛盾が引き起こされるのだが、それを解決するために、その壁を取り除くのではなく、その壁を見える化し物象化することによって、その物象化が存在する限り、矛盾が絶え間なく永劫回帰する。

 

近代特有の矛盾の問題性は、この物象化を内在化させて持続可能にするダブルバインド状態を形成したことにある。

 

たとえば、「趣味」である。個人的で主観的でプライベートな問題であり、公共性の強いものではない。ポストモダンは、この「趣味」を重視する個人の出現が形成した政治形態である。しかし、これは政治形態ではなく、個人の興味と関心で動く消費者による市場至上主義的な大量消費・大量生産・大量移動のもたらした経済形態であるとみなされるに至っている。

 

本来は政治や法律によってコントロールされているが、あたかも自由な時空で、倫理なき大量消費市場経済が成り立っているように見えるのがポストモダンな現代である。だから市場はときにバランスを崩す。バブルが膨らみ、崩壊する。これは配分の正義と交換の正義を分断し、交換の正義の規制の多寡だけで構成する交換経済である市場経済にシフトしたことによって起こる現象だ。

 

本来交換の正義のコントロールは、交換の正義によって行うのではなく、配分の正義と連携して行われるのでなければ、解決はできない。論理的にショートしてしまうからだ。しかし、両正義の間には分断線があるのだ。だから、市場の経済はバブルの崩壊と回復を繰り返す。中世ヨーロッパの都市経済が、シュンペーターによれば、資本主義の萌芽だったというのは、そこで決まる市場価格が交換の正義のみで決まりはじめたからだ。トマス・アキナスは、この交換の正義が功利主義的であることをすでに見抜いていたし、だからこそ、この功利主義的正義を配分の正義という公正な基準で回収しようと試みた。そこはカントさながらである。そして最終的には他人にしてもらいたいようなことを他人にもしなさいという黄金律を最終審に組み立てた。

 

だが、トマス・アキナスのこの正義の壮大な存在論は、交換の正義の前に忘却されたかのようであった。しかもこの黄金律に至る配分の正義などの発想は、規制と捉えられ、自由を阻害するものとされた。

 

しかし、啓蒙期に入り、この配分の正義と黄金律は、社会契約や自然状態に置き換えられ、カントに至っては自律や相互性の概念にシフトしていった。

 

ハイデッガーは、この交換の正義に基づく消費経済社会を現存在が存在者を忘却する実存的世界ととらえたのだろう。この実存的世界における存在者の回復は、いまここで気遣いによってとらえ返さねばならない。しかし、その気遣いを逆利用したのがナチである。ハイデッガーは、存在の故郷を言葉に求めたが、ロゴスには求めなかった。黄金律という最終審を持ち出すことができなかったのであるまいか。ナチによる実存的社会救済は、アンチ存在者が降臨することだったということに気づかなかったのかもしれない。

 

ともあれ、市場社会にあっては、等価交換という唯一の正義が稼働することになる。倫理なき功利主義の支配である。しかし、これは配分の正義という正義をかなたの次元に閉じ込める結界を形成してはじめて成り立っているのだ。

 

だから、NHKの白熱教室で、ハーバード大学のサンデル教授の「正義」について語る授業が公開されている。結界を消去するために。

 

「趣味」は個人的な嗜好性に閉じ込められているが、それは市場経済、つまり交換の正義という金に換算されるものさしだけで選択が決まる社会から配分の正義というバージョンに結び付けば、「趣味」は「美学」になる。

 

しかし、交換の正義のバージョンでは、「美学」はたんなる「論理学」にすぎない。近代の矛盾を超えるビジョンは、人間存在の回復と浸透である。しかし、それが交換の正義段階のバージョンでは、夢であり理想であり夢想である。配分の正義にバージョンをあげなければならない。これがオバマ大統領の葛藤である。民主党の共和党との闘争は、政治ルールを変えることではない。バージョンの闘争なのだ。パラダイム転換ということか。

 

人間存在の回復は、「趣味」としての「美学」であり、アンチ存在者の支配は、「論理学」としての「美学」、つまり「美学」の抹消である。クリエイティビティの消去・・・。

 

だから、マルセル・デュシャンの作品「泉」は強烈な揺さぶりだったのである。なぜ男性便器の機能が「美学」にシフトするのか?コンテンポラリーアートは、非芸術領域に「美学」を持ち込むことであり、それは村上春樹の壁にぶつかりゆく卵そのものである。

 

卵は砕け散るが、アーティストの無限のその試みは、結果的にあのベルリンの壁を美学が塗りつぶしたように、卵テンペラで「美学」に変容させるだろう。

 

人間存在の回復は、カントのようにヘーゲルのように判断力批判や美学の回復である。ルソーのように道楽から「趣味」を救済し「美学」のポジションに位置付けることである。矛盾の永劫回帰を形成している壁の向こうから子どもたちを「美学」の領域に連れ戻すことである。

 

だから、Good Schoolは、芸術にこだわるのである。体験にこだわるのである。文化としての食育にこだわるのである。壁の向こうからこちら側を見る覗き穴は、テレビであり携帯であり、インターネットという臭覚・触角・味覚を切り捨てた視覚・聴覚優位のメディア装置である。このメディア装置のもたらした広告情報の肥大化が、強制収容所を隠ぺいする狂気を生み出したのである。

 

日常の美しい自然の向こうに、人知れず強制収容所があったなどということに市民は気づかなかったことが多いのだ。強制収容所は、視覚や聴覚を閉じれば見えなくなる結界でのできごととしたのである。そこでは触角、臭覚、味覚の絶望が支配し、そのまま苦しめられ切り捨てられるそのむごさがどんなに死を無理やり許容されるピークに至っても、向こうの世界からは影ほども見えないのである。「美学」を切り捨てることによって、この筆舌に尽くしがたき出来事が起こる。それを回避するプログラムをGood Schoolは常に開発し続けているのである。

 

「美学」なき教育が、人間存在の殲滅を意味していることを伝えるには、Good Schoolの存在そのものが重要である。この情報を広め共有することがいかに重要であるかなのである。

Good Schoolはいかにして可能か?②

2010/05/28

カテゴリー: イノベーション


§2 世界標準とは何か?

 

さて、Good Schoolの大前提である世界標準のものさしとは何だろうか?それは、どのような言語であれ、近代の矛盾を乗り越える挑戦を世界の人々とコラボレーションしていく言葉と行動の能力を方向づけるコトである。

 

したがって、戦争を標榜する(結果的であれ)のは、いかなる条件であれ世界標準ではない。つまり、米国もEUのほとんどの国も、世界標準ではない。そうすると世界標準に近いのは日本ではないのか?いやいや、私たちの場合は、たちが悪い。お金の投資というグローバルゲームに参加していることがすでに戦争に加担しているという自覚がない。自覚なきグローバリゼーションほど世界標準から遠いものはない。

 

ともあれ、戦争は近代の矛盾そのもの(解決手段という矛盾)であり、世界標準とはま逆である。戦争なんてえのは、昔からあって、別に近代の矛盾ではないだろうというのは、これまた世界標準から遠い議論はない。近代の矛盾は化石燃料というかエネルギーの独占から生まれているのである。近代戦争の理由は、それ以前の戦争と質が違うのである。

 

市場の原理でさえも、このエネルギー独占に支配された時、市場原理主義に陥っているのである。

 

こういう根源的・本源的論議を回避する学校は、Good Schoolではない。つまり世界標準ではないのである。

 

さて、その近代の矛盾について、認識を追究するのが、Good Schoolのコミュニケーション・カリキュラムである。特に数学の学びが、いかにこの矛盾を知る言語の学びにつながっているかを認識できているかどうかは、Good Schoolであるかどうかをチェックするときに役に立つ。

 

微積分の問題を解くことが何を意味するのか意識できている数学の授業は、世界標準である。論証によって矛盾に気づくことが、民主主義はある条件の時独裁を導くということについて考察できている数学の授業であり、それは世界標準である。

 

このことと同じことが言えるのは現代文の授業だ。このことと同じことが言えるのは社会科の授業だ。いうまでもなく理科も。英語は?スキルトレーニングだけを行っている英語の授業は世界標準からもっとも遠い授業である。米国にとっての世界標準であり、EUにとっての世界標準を批判的に検証しないまま成り立っているからである。

 

また、近代の矛盾を解決する方法を考え、活動する学びのプログラムを持っている学校は世界標準に達している。エコをテーマに、体験をし、リサーチし、議論し、論文を作成し、プレゼンする過程を構築する学習は、世界標準のへの大きな第一歩である。しかし、それだけでは、日本標準以上世界標準未満である。政治の問題テーマに同じような過程をデザインする学校も大きな第一歩を踏み出してはいるが、まだ世界標準ではない。自分を探究するキャリアガイダンス推し進めている学校も、まだ世界標準ではない。

 

私たちは、テーマは絞らなければならないなどという常識にとらわれてはいけない。テーマを絞らなければならないというのは、広告業界では成り立つだろう。入学試験の論文対策にはなるだろう。資格試験の合格のための戦略としては力を発揮するだろう。

 

だから、テーマを絞る学びは、当たり前だが、目的が限られている。しかし、人生は目的が限られているだろうか。人生は突然未知の世界をその都度拓いてくる。そこを無視して他者の設定した環境の中で生きていくことはもちろんできる。しかし、世界標準は、その都度拓かれる未知の世界を生き抜く言葉と行いのものさしである。

 

その都度拓かれる未知の世界は、初めからカテゴライズされているわけではない。有機態の塊である。関係総体の塊である。その塊を、たとえば、細部と全体から、微積的発想イメージで解き明かすことが重要なのだ。

 

目の前の関係総体を、≪「ばららばらにしながらも再構築」するという脱構築≫をアクロバティックにやってのける智慧の形成過程こそ世界標準の学びのプログラムである。すぐ目の前に拓かれた視界をとらえるのに、実はリサーチはすぐには役に立たない。インターネットも図書館も近くにないのに、壮大なパースペクティブが拓かれている。そんなときどうするのか。

 

徹底的にコミュニケーションをとる以外にない。人はもっともすぐれたリソースなのである。人間関係づくりとは、そのリソースをつなぐことが本来重要なのである。愛や心地よさは、そのリソースを拓くコードなのである。

 

この意味での愛や心地よさという共通コードを形成し、使えるようにするのが教育の使命であり、そのミッションを実践している学校がGood Schoolである。