本間勇人 の Goodware Times

‘コミュニケーション’ カテゴリーのアーカイブ

学習アドバイザーのコミュニケーション【了】 Building of Questions

2009/08/18

カテゴリー: コミュニケーション


◇大人の世界(現実態)―子どもの世界(可能態)の近接領域であるOriginal Angle between Potentiality and Actuality(OAPA)では、子どもたちは何がわからないのかわからなかったり、自分たちの思いや考え、発想が、一般化されている現実態としての社会においてどうつながるのかわらない。

 

◇それゆえ、まずは一般化された世界の構造をパーツごとにまずは記憶していくというのが、従来の教育だった。しかし、学習アドバイザー(LA)は、そこにすぐに飛ばずに、OAPAの領域で、子どもたち1人ひとりの問いを意識化(=Building of Questions:BOQ)していくのをサポートしていく。

 

◇BOQは、質問をして構築していくのとは全く違うタイプ。LAは質問自体を子どもたちとシェアしていくのである。コンテンポラリーアートのように、質問のパフォーマンスを子どもたちと行っていくというのもよいのであるが、その質問がどこから生まれてくるのか、そこを学ぶのが、学習プログラムで、そこを省くのがインスタレーションだ。芸術は直感がベースだが、学びは手探りが前面に出る。体験とかフィールドワークというのは、外部の物に触れることは1つのきっかけにすぎず、本来は手がかり足がかりを内部に地道に探す作業なのだ。不安は大きく、必ずしも楽しくない作業だから、ここで撤退してしまう可能性がある。そこをサポートするのがLAだ。しかし、あるとき驚きに変化することも確かだ。

 

◇さて、OAPAの領域で、子どもたちは、キーワード、キーフレーズ、キーセンテンスなどの連続型テキストを手探りしているし、表現もしている。言葉ではなく、写真や地図や数字やグラフ、表、方程式、五感のデータなど非連続型テキストをインプットしたり、アウトプットしたりもしている。

 

◇これらに耳を傾け、よく観察し、五感でインプットする。心身に染み込むように時間をとらねばならない。しかし、長ければ良いということではない。この時間をとっているという記号(sign)が必要なのだ。マインドマップ、瞑想、チャット、読書、素描、ダンス、歌う行為、ヒアリングは、この時間の痕跡(impression)としての記号(sign)なのである。

 

◇手段が目的化しているのがハウツー本であるが、子どもによって、どれが最適なのかは違う。それゆえハウツー本はほとんどの子どもたちに役に立たないのである。BOQを自ら出来るようにならなければ、未知の出来ごとにでくわしたときに立ち往生してしまうだろう。だから、まずはいろいろな角度からやってみる時間が必要だ。BOQのトリガーになる記号は、子どもによって違うのである。ここに着目しているのがハワード・ガードナー教授だろう。

 

◇ともあれ、痕跡を忘れてはならない。その痕跡としての記号にどう反応したのか、そこを参与的に観察するのがLAだ。目を輝かす記号が見つかれば、そこがその子にとっての問いの構築の契機=トリガーである。

 

◇あとは各人がそこから言葉を拓いていける。キーワードはたくさん出てくるだろうし、それはキーフレーズやキーセンテンスという構造をつくっていくだろう。ある程度広がったら構造分析・整理をするとよい。共通性と差異性の入れ子状態が現れる。これはデノテーションとコノテーションの反転の連続で、途中でショートしたり、ジレンマの問いが生まれてくるが、それが大事な問題なのであり、そこまでの過程すべてが問題の構造(BOQ)なのである。

 

◇このBOQはしかし、はじめ自己完結型で、他者との共有が必ずしもスムーズにいかないときがある。そのときはどうするか?「置き換え」という作業を互いにする。「置き換え」とは共通性と差異性を再び発見する作業である。

 

◇「置き換え」は、意味レベル、比喩レベルがある。まずは意味レベル。同じ意味の別表現の言葉を見つける作業だ。次に、比喩レベル。レトリックが類推からメタファーや逆説へ駆け上がる時、創造性が一気に立ちあがるだろう。

 

◇このような「置き換え」は問いの構造を増築していくときに使うメタトリガーである。

 

◇BOQの手順を箇条書きにすると、

 

①子ども一人ひとりに適合するBOQのトリガーを見つける。

②BOQを広がるだけ広げる。

③BOQ分析をする。

④お互いにBOQをつなげるために「置き換え」作業をする。

⑤大きなBOQは果たして、一般化された社会の知識とどうつながるのか分析する。ここでもメタトリガーが役に立つ。

 

◇ということになるか。こうして、OAPAという存在の故郷を問い返すBOQをメタ認知として内面化できる。子ども時代や中高時代を思い出すときの郷愁やメランコリックな心的状況を大切にしつつも、それを現実態にイノベーションの衝撃を与えられるエネルギーに転換することもできるようになる。可能態をなつかしんで、現実態の壁に取り囲まれて、従属する主体的な生き方しかできない状態を回避することができるようになるだろう。村上春樹さんではないが、壁にぶつかる卵のように生きていくことも可能になる。

 

◇壁になるか、壁の前で逡巡するか、主体的に壁を支えるのか、卵になるのか・・・。それは人それぞれの選択なのではあるが・・・。

学習アドバイザーのコミュニケーション【02】

2009/08/18

カテゴリー: コミュニケーション


◇学習アドバイザーは、現実態―可能態の近接領域であるOriginal Angle between Potentiality and Actuality(OAPA)に立って、根源的なズレを当事者とシェアし、ズレを多様性や個性として組み換えるサポートをしていく。

 

◇そのサポートの方法は、コミュニケーション。抑圧的ではなく、論理的かつ創造的なコミュニケーション。しかし、これはいかにして可能なのか。ここは不問に付され続けている。質問力などが重要だということになり、質問攻めにしたり、質問をするように要求したりするが、それは現実態としてのすでに社会の領域で行われる手法なのだ。しかもその社会というのは、勝ち組負け組を前提とする力による競争社会だ。

 

◇これでは、知識量を多く持った人材が勝ち組になり、格差は広がるばかりだ。またOAPAという領域を意識しないで、その領域から出ることが出来ない場合、社会の生み出す格差に対抗できない。学校化社会の問題がここにある。学校ではこのOAPAを意識しない。そしてその状況が社会に延長してしまっている。社会化という言葉があるが、学校は子どもたちを社会化することが目的である。

 

◇この社会化における個性は才能ではなく能力の差なのである。

 

◇OAPAを意識し、その領域を拓くためにLAがいるのだが、社会が抑圧的で、創造性が広がらない鬱屈感や閉塞感からやって来る不安という気持ちを通してOAPAの存在の棲みかを探しているのがLAだと言ってもよいかもしれない。

 

◇この不安を存在の棲みかが危機にさらされているところからくることを認識できない場合、パニックになる。パニックは抑圧を生みだす。ナチズムやファシズム、軍国主義の生まれる構造は、小さなコミュニケーションの積み重ねがピーキーな過剰を生みだす。

 

◇LAの本来的な意義は、子どもたちや、実は大人も、自分の力で根源的な存在を拓くサポーターなのである。そのコミュニケーションは抑圧的ではなく、論理的で創造的なコミュニケーションなのだ。One WAyではなくTwo Wayであればコミュニケーションであると思われているが、Tow Wayでも抑圧的・操作的な場合がある。One Wayでも論理的で創造的なコミュニケーションの場合もある。

 

◇ここに抑圧者や力の忍び寄る意匠=表現=プロパガンダがあるのだ。このプロパガンダとしての表現が、OAPAの領域を覆い、見えなくする。この覆いを取り除く作業は、自身でしかできないが、そこをサポートするのがLAである。

 

◇存在を覆い隠すコミュニケーションと存在を拓くコミュニケーション。前者を力づくで維持するのが抑圧者。後者をサポートするのがLAである。

 

◇ひとの生き様は、つねにいろいろなプログラムに遭遇している。プログラムとはなんらかの変化を生みだす。生きるということは変化だからだ。そしてそのプログラムに流れるものはコミュニケーションというエネルギー。抑圧エネルギーと創造エネルギーは常にぶつかり合う。

 

◇それは、学校でも、授業でも、企業でも、官庁でも、政治でも同じであるが、21世紀は創造エネルギーとしてのコミュニケーションが流れるプログラムの構築がなされようとしている。学校化社会そのものの変質といってもよいだろう。社会が変われば学校が変わるのだろうが、ここまで学校化社会が構築されてしまったのだから、社会が自ら変わることは難しい。学校あるいは教育が変わることが社会が変わることなのである。

 

◇このままの格差あるいは抑圧社会を温存する人材を育成することに結果的になってしまう教育は、創造社会に転換することをサポートできる人材を育成する教育にシフトする時代がやってきたことだけは確かではないだろうか。

学習アドバイザーのコミュニケーション【01】

2009/08/16

カテゴリー: コミュニケーション


◇学習アドバイザーは、どの領域でコミュニケーションをするのか。これがまず確認されねば、ポジションの違いで、コミュニケーションはうまくいかない。教師という専門世界(=現実態)と子どもの世界(=可能態)のズレ領域で、子どもとコミュニケーションをする。この現実態―可能態の近接領域をOriginal Angle between Potentiality and Actuality(OAPA)と呼び、そこには根源的なズレをつくっているベクトルの角度があるとしよう。

 

◇学習アドバイザーは、このOAPAの状況を子どもに気づかせ、教師に報告する。子どもによって、その角度が違うし、現実態と可能態の角度をどのくらいにしていくかによって、個性が異なってくる。180度だと軌道修正はやはり必要かもしれない。0度だと、良い子ちゃんには違いがないが、それはそれでどうしようかという話になるだろう。

 

◇しかし、いずれにしてもそれは子どもたちが自分で決めることだ。そして、社会の現実とのズレの程度いかんは、法律が限界であることも認識したいところだ。もちろん、そのあと、その法律の違憲性を意識するしないという次元が待っているが、中等教育段階では、一足飛びにそこには到達しないだろう。

 

◇このOAPAを意識しないで、知識を伝えてきたのが、従来の教育。角度が0度で、並行していると、その次元を縮めていけばよいが、角度があると、どんどんズレていく。そこをどうするかは、学校の理念や教育方針に拠る。教育理念が大事なのは、本来的にはこのOAPAをどうするかにある。

 

◇学習アドバイザーは、学校と協働するとき、この理念や方針を守らねばならない。個人的に人生のアドバイザーとしてロールプレイするときは、相談を求めてきた相手の理念を傾聴するところから始めなければならない。

幼稚園教員に必要な講習とは?

2009/04/14

カテゴリー: コミュニケーション


教育ルネサンス(読売新聞 09年4月14日)によると、これまで幼稚園に関する専門的な更新講習がなかったということです。その結果、

 

全国で約8万6000人いる幼稚園教員(教諭、講師)は、小・中学校などと同じ講習を受けても、役に立ちにくい場合が多い。講習で必ず扱う学習指導要領は小・中学校、高校、特別支援学校向けで、幼稚園向けの幼稚園教育要領に触れることはほぼないからだ。

 

☆なんということでしょうか。幼稚園生と小学生とでは、あらゆる部分で全く違うコミュニケーションをとります。コミュニケーション即人間というのが幼稚園生です。小学生にとっては、コミュニケーション即人間だけではなく、コミュニケーションは道具であるということに気づき始める時期でもあります。

 

☆もちろん、この「即人間」といっても、まだ未分化な存在という意味ですが。それはともかく、ある親しい幼稚園の園長さんから聞くのは、幼稚園の教員というのは、休む暇がないということです。それはそうでしょう。道具としてではなく、未分化の人間としてのコミュニケーションです。幼稚園生に対して、ことばでルールを伝えることはできません。

 

☆ルールというのは抽象的なものです。それゆえ道具になりえますが、幼稚園生は未分化の人間です。ということはすべてが同伴によって、そのつど身体によってコミュニケーションがなされるわけで、そんな幼稚園生とは、片時も離れることができないのです。だから初等中等教育の教師のように、一日の学園生活の中でほっとする間がないのです。

 

☆幼稚園生は早く帰宅するではないかといわれるかもしれませんが、その時間は、次の日の準備とその日、園児がどのような様子だったかきめ細かく記録を取る作業をしなければなりません。表情、目の輝き、行動すべてについて記録するのだそうです。園児1人ひとりまったく違うわけですから、膨大な時間がかかります。なぜ一見すると非効率なことをするのでしょうか。

 

☆それは、幼稚園生の成長や変化はあっという間だからです。ちょっとした変化も見逃さないようにするには、この作業が大事だし、保護者とのコミュニケーションを表面的なもので終わらせないためにも必要なのだそうです。

 

☆しかしながら、このような膨大な記録をどのように活用するかは、試行錯誤で、体系を学ぶチャンスがあるわけではないのです。子どもと接することは日々幸せであるけれど、せっかっくのチャンスを生かせないもどかしさも感じているというのです。

 

☆工業中心社会の時は、みな同じように成長すればよいので、違いなど無視すればよかったのです。ところがコミュニケーションベース経済社会にあっては、人間としての差異が重要です。幼稚園時代にこの差異を大切にしないと、個性のない大人ができあがります。今大人は、おれは個性的だよと言うでしょう。しかし、それはある範囲の中でブラウン運動しているだけで、決められた流れの中で生きているという点で差異がないのです。

 

☆ここまで考えてくると、幼稚園の教員の講習の問題性は、専門の更新講習がなかったという点ではなく、今まではなくてもやってこれた社会だったけれど、今後の転換社会では、それではやっていけないというパラダイムの転換のシグナルであるということなのですね。