◇朝日新聞(090907)「博士課程の定員削減 必要?」の記事は、ポスドク問題の背景を浮き彫りにしている。20世紀末の科学技術立国再興のための大学院重点化や博士課程の定員増の政策などのツケが回ってきている。
◇これは小中高の「ゆとり教育」の問題と同じ構造。というのも、生活科や総合学習の時間は、能力ではなく、才能を見出すことが本来的な意味合いだったはずが、能力と才能の差異を明確化できないまま、結局能力主義に回帰し、「脱ゆとり」になった。
◇ポスドクも能力ではなく創造的で発想力のある、それでいて編集企画のリーダーシップを発揮できる才能を重視していたはずなのに、やはり目先の結果に惑わされ、能力主義に回帰。
◇能力主義とはメリトクラシーであり、能力の順位をつけるのが常套手段。よって、人数が多くなれば、能力の質が低下したみたいな話になる。
◇もっとも、このような差異を意識して論じている人は、公共的には少ない。国のカネを使うから、どうしても経済政策と表裏一体のトーンにならざるを得ない。
◇すると、能力の質の高低と能力の発揮できる仕事の場所の多寡が論点となる。しかし、これは二律背反で、決着がつかない議論。
◇背景である能力主義でいくのか才能主義でいくのかという大前提の選択が決まらない限り、決着がつかない議論である。
◇能力主義は一元ランキングの世界。才能主義は多元ランキングの世界。前者は、優秀な専門家でなければ世の中を動かせないと思っている。後者は、すべての人にその人に合った才能があり、その才能を生かせば世の中はハッピーになるという信念がある。
◇この後者の発想こそ、欧米で注目されているクリエイティブシティ、クリエイティブ資本主義、クリエイティブクラスの新たな産業構造の動きである。
◇ノマドワーキングが増えたり、脱化石燃料産業が勃興したり、新たな平和構築の動きが生まれたり、世界同時政権交代劇が起きたりしているのは、その流れだ。
◇しかし、日本の官僚の動きは遅れている。能力の問題ではない。能力はピカイチだ。才能の問題である。
◇ということは官僚内部が能力と才能の有効なバランスを取り始めたらどうなるだろう。日本国家は最高デス!になるかも。
P.S.単純化は出来ないが、公立中高―東大=加藤弘之タイプ(Kタイプ)。私立中高―東大=南原繁タイプ(Nタイプ)。文科省にもNタイプは進出している。能力(Ability)主義と才能(Talent)主義のバランスはあり得ると思う・・・。

