§1 Good Schoolの条件
中等教育段階の学校として、Good Schoolはいかにして可能か?私立学校であれ、公立学校であれ、Good Schoolはいかにして可能なのか?
目の前の教育政策、目の前の生徒獲得戦略は、非常に重要であるが、もしそれが上手くいっていない場合、根本に立ち戻って考えてみるのもよい。
特に国全体があるいは教職員が一丸となってがんばっているにもかかわらず、教育政策がうまくいかない、あるいは生徒募集がうまくいかないという場合、それは情熱が足りないわけでも、チームワークがうまくいっていないわけでもない。もちろん、現実的にはそういうことが原因でうまくいっていないことが多いかもしれないが。
大学進学実績が上手くいっている場合、必ずしもGood Schoolとは言えない。しかし、大学進学実績が上手くいっていない場合、Good Schoolの条件は明らかに満たしていない。
そうはいっても、大学進学実績とは何だろう。実はそのことについても真剣に議論されることはなかった。東大・早慶上智・MARCHクラスの大学にたくさん入学させることは、進学実績の一部ではある。しかし、それがいったい何を意味するのだろうか。
大企業や資格社会で生き延びるのに役立つという回答はすぐに返ってくる。しかし、それは20世紀日本社会で有効だったに過ぎない。いや、今でもこの流れや結び付きは不変であるといわれるだろう。その通りである。しかし、そのことが今でも意味があるというのだろうか。もしそう思っていたならば、その発想は日本の未来に暗い影を落とすのに一役買うことになるのではないか。
日本標準は、完全に世界標準に通用しなくなっていることが明らかになったのが89年以降の歴史である。
しかし、タイタニックというメタファーが使われるような場合に相当するのが、今の日本社会である。日本標準というタイタニック号にしがみついていても、うまくいかないのである。
だから、Good Schoolの条件は世界標準を実行しているということである。では、世界標準とは何か?それについても実は、教育の世界ではあまり議論が活発ではない。それほど日本の教育は世界標準に程遠いのであろう。
いずれにしても文科省は、世界標準については真正面から論じていないし、PISAという日本標準以上世界標準未満のものさしを、日本標準に引き下げた全国学力テストに象徴されるように、世界標準に通用しない教育政策が、日本の公立学校の現状である。
したがって、Good Schoolの条件をすでに、この段階で満たさないのが公立学校である。これは残念なことだ。明治政府が追いつけ追い越せ路線でやっていたときは、それでよかった。しかし、その時代は終わった。追いつけ追い越せではなく、新たな発想を自ら生みだす貢献が求められているのが日本社会の世界における位置づけである。
その意味で、世界標準をわがものにしようとしているのは、私立学校の場合が多いのである。もちろん、私立学校でも日本標準のままのところもある。
それゆえ、Good Schoolかどうかは、結局私立学校の選択問題に限定されてしまう。
Good Schoolはいかにして可能か?という問題は、結局私立学校の質の差異の問題ということになるのである。
公立学校は、残念なことに、文科省がパラダイムシフトをしない限り、Good Schoolの埒外にあることになる。ただし、潜在的Good Teacherはいるだろうが、その教師も公立学校に勤めることを決めた瞬間にその潜在力を発揮できないまま終わるのである。もしこのことに異を唱える公立教師がいたとしたら、残念なことに冷静さを欠いているといえよう。
人生の問題とGood Teacherの問題を混同してはいけない。誰しも妥協せざるを得ないのである。ただ、妥協するか理想を追い続けるかは、進路選択の問題である。ここでGood Teacherと呼んでいるのは、世界標準の教育を実践していることが前提となるから、そのような環境のないところを選んだところで、すでにGood Teacherであるかどうか、その評価の埒外にあるということだけなのだ。
もし公立学校の教師で、Good Teacherを目指そうとするならば、それは公立学校にいながらにして、教委や文科省のパラダイムをシフトするチャレンジをしなければならない。しかし、それが法構造上できないのが、現在の公務員であろう。

