◇これまでの取材を通してサイエンス科ではクリティカルシンキング(CT)の育成が目標の一つにあることが見えてきました。そしてそのCTの能力を獲得する方法としてフォーム=「型」が重視されていることもわかりました。
◇フォーム=「型」を与えることとCTとは、もしかすると一般的には相反することに映るかもしれません。型にはめるのではなく、自由に書かせることが個性の伸長であり、創造性につながるのではないかと。
◇この点について、サイエンス科主任の山田先生は、説明会で、大リーグの選手をたとえに出して説明を行っていました。大リーグでは各選手が自由に個性を発揮しているように見えるが、彼らは皆そこに至るまでにフォームを徹底的に仕込まれる段階を通過してきているのです。
◇従来の日本社会はフォームを意識しなくても、社会が同質であることが結果的にフォームの役割を果たし、日本式の意思疎通を図ってきたのかもしれません。しかし、グローバル化が不可避の潮流となるにつれて、これまでのコミュニケーションスタイルの変更が迫られているのは、国際会議の場を見ても、あるいは日常生活に外国人が増えていることからも明らかです。
◇かえつ有明の先生方とお話をしていると、世界とコミュニケーションをとる上での「フォーム」を中高生の間に獲得する必要があるのではないかという問題意識や意気込みが感じられます。それは、塾や予備校が解答を手軽に作成するための受験テクニックとして、小論文や英作文対策の「論述フォーム」を教えるというレベルとはまったく異なる次元のものです。
◇かえつ有明で言う「フォーム」というのは、「リサーチノート」や「トレーニングシート」に象徴されるように、CTを行う上での手段であることはもちろんですが、あるときには、授業を行う教室空間の雰囲気や、スポーツにおける道具の使い方などにも及んでくるわけです。従来の教育で言うところの「礼儀」とか「修養」といった概念まで、「フォーム」という表現に集約されるわけです。そのようなことを以前山田先生は、「フォームはCTの手段であると同時に目標でもある」と話をされていました。
◇このように考えてくると、石川教頭先生や山田先生が「リスペクト」ということばを、よく口にされることもわかってきます。CTをする上で、リスペクトは必須の前提条件なのです。つまり、クリティカルであることは、おのおのが異なるものであることを前提としており、相手へのリスペクトがないと、CTは単なる他者批判になってしまいます。CTを煙たがる社会的背景には、同質であることを前提とした社会構造があるのかもしれません。
◇従来の学校(特に公立の学校)では、日本人の子弟だけがいることを前提にして指導が行われてきたのですが、今後彼らが勤める企業や団体は、様々な民族で構成されている可能性も十分あるわけです。そういう社会でサバイバルしていく子どもたちは、単に英語運用能力を超えた、他者へのリスペクトに基づいたクリティカルシンキング能力が必要になってくるのではないでしょうか。かえつ有明のサイエンス科の取材を通してそんなことを考えさせられました。

